こんにちは。好きなことでゆるく働き、都心ミニマルライフを楽しむもふもふです。
ここ数年で気づいたことなのですが、人と話していて、
どうにかして相対化しないと、自分が幸せだとわからない。
という現象によく遭遇します。
今回は、「無意識に相対的な幸せを求めていない?幸せへの感受性を高めよう。」についてお伝えします。
絶対幸福で生きている私
私は、他人と自分はどちらが幸せ?と考えたことが、おそらく子どもの頃から一度もないと思います。
なぜなら、そんなことは誰にもわからないので、考えること自体が無意味だから。
これは家族全員が自分のことにしか興味がなかったという環境もあるし、私も単細胞すぎてそこまで考えられなかったというのも要因だと思います。
そのかわり、絶対幸福みたいなものへの執着は、人より強かった!!
自分のほしいものは、なんとしてでもほしい。
それが手に入らない時は、全世界の絶望を詰め込んだように落ち込みましたよ。
ほしいおもちゃを買ってもらえない、と知った時とかね。
相対視点で幸福を語る人が多い
そのため、私は人と話していて、時々不思議に思うことがありました。
たとえば、こういうの。
- 子どもがいる人を見ると、自分の時間がなくなる。だから自分は夫婦だけでよかった。
- お金持ちはお金持ちで大変そう。だから自分は、ほどほどの暮らしでよかった。
要は、「自分の幸せを表現するために、他者との比較が入る。」という場面が、相手の話し方で多かったのです。
私は前述の通り「ほしいものはほしい!」視点しかないので、この比較がなんだか不思議でした。
これ、うまく伝わるかな…?自分の例で説明してみますね。
私の幸せは「好きなことでゆるく働く暮らし」
私の場合は、誰になんと言われようと「好きなことでゆるく暮らしたい」ことが、自分の求める幸せです。
これは誰と比べる必要もないくらい、シンプルに自分の願望です。
一方、この例でいくと、多くの人が、
稼いでいる人が幸せとは限らない。だから、私は好きなことでゆるく暮らすのが幸せ。
みたいな、無意識に稼いでいる人と比べて自分はこちらが幸せだと思う、という話し方をするんですよね。
これと同じように、SNSでも「〇〇よりは、〇〇の方が幸せだよね。」というポストをよく見ます。
なぜ何かと比較しないと、それが幸せとセルフ認定できないのでしょうか?
幸せを受け取る力が足りない
あくまで私の見解ですが、最終的にこのような結論となりました。
幸せへの感受性が不足していると、幸せを相対化してしまうのかな?
そこにあるものが幸せだと感じるものの、その判定に自信が持てないということですね。
そのために、他の価値観を落としたりして、自分の幸せの立ち位置をはかっているのかもしれません。
全然違ったらごめんなさい。あくまで私の見解です。
幸せへの感受性を高めるには?
では、幸せへの感受性を高めるにはどうしたらいいのでしょう?
ここに明確な答えはないのですが、まずは暮らしにゆとりを持つことです。
きちんと食事をして、寝て、健康な体と心で日常風景を見渡すと、幸せに感じることってたくさんありますよ。
あとは、私がしつこく言っていることですが、自分軸を持って楽しむこと。
誰のフィルターもなく、自分だけが好きなこと・楽しいことに集中し、没頭するのです。
ここでのコツは、情報の海を泳ぎすぎないことです。
事前に悟ってしまったり、先を予想したりすると、自分が夢中になるアクセルが踏めません。
幸せへの感受性、どんどん高めていきましょうね。
まとめ
以上、「無意識に相対的な幸せを求めていない?幸せへの感受性を高めよう。」についてお伝えしました。
幸せへの感受性を高める方法は、こちらでした。
- 暮らしにゆとりを持つこと
- 自分軸を持って楽しむこと
- 情報に触れすぎないこと
ちなみに、私のなかで、幸せへの感受性がべらぼうに高いのは、父です。
夕方にNHKでやる相撲番組を観て、あんなに夢中で応援する大人を、私はほかに見たことがありません。
滑稽だけど、とにかく楽しそう。
こういう、日常を全力で楽しめる人は、結局最強なんじゃなかろうか?と思います。
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