こんにちは。好きなことでゆるく働き、都心ミニマルライフを楽しむもふもふです。
みなさんは「正義中毒」という言葉を知っていますか?
自分とは異なる考えや行動を理解できず、許せないと感じてしまうことだそうです。
ChatGPTより:正義中毒とは、自分が「正しい」と信じる価値観や倫理観を振りかざし、他人を攻撃したり断罪することに快感を覚える状態を指します。SNSやネット掲示板などでよく見られる「正義の名のもとに他者を叩く」行動を表現する際に使われます。
今回は、私たちが陥りやすい会話の落とし穴「正義中毒」についてご紹介します。
海外の方がメイン顧客のお仕事です

私は、東京都心で活動しているペットシッターです。
この事業のサービスエリアでは、海外の方がメイン顧客。
そのため、英語が得意でない私は、毎度お客さまと冷や汗を流しながら会話しております。

先日はPark(公園)という単語が出てこない自分に戦慄したよね。
英語が必要だった理由は、こちら↓
言葉の問題はあるのですが、彼らと話していると、私には心地よい場面が多いのも事実。
「あなたはあなた。わたしはわたし」思考について
なんとなくですが、海外の方は自分の価値観が確立されている人が多いように感じるです。
わかりやすくいうと、いつも会話の根底に
あなたはあなた。わたしはわたし。
という自立した思考がある人が多かったように思います。
一方で、日本人は共感に重きを置いている人が多い。
そのため、会話の時に気を遣わねばならない場面がけっこうありました。
相手の志向を論破しようとする日本人

日本人で、子育て中の友人と話していたときのエピソードです。
子育ての話になり「もふもふちゃん、子どもは?」と聞かれました。
私は子どもを欲しいと思ったことがないので、今後もその予定はないと伝えたところ、彼女の表情がサッと変わりました。
そして、なぜか猛烈に反論を始めたのです。
彼女はなぜ論破したかったのか?
まるで私が論理から外れた発言をし、それを論破しようと必死な雰囲気でした。
私は彼女の剣幕にびっくりし、何か自分に思い至らない点があったのかと不安になりました。
子どもは可愛く、かけがえのない存在。年齢制限もあるから考え直した方がいい。
というのが彼女の主張でした。
しかし、私はその主張の内容よりも、彼女が怒っているように見えたことが気になりました。
私を心配して言ってくれているのかな?とも思ったのですが、それともまた違う様子です。
私は自分のことを聞かれたから答えただけなので、なぜ彼女が気分を害した(ように見えた)のかが、全くわかりませんでした。
その時は、子どもの話はどうやら自分が思う以上にナーバスなものなのだ、というのが感想でした。
相手の意見は「そうなんだ」で終わる、アメリカ人
しばらくして、同じことを別の友人から聞かれたこともありました。
彼女はアメリカ人で、やはり「わたしはわたし。あなたはあなた」が根底にある思考の人でした。
私は日本の友人との会話を思い出しておそるおそる、「私は子どもはつくらない予定なのだ」と伝えました。
すると、彼女からは「そうなんだ。私の場合は欲しいな。なぜなら…」と何事もなく会話が続きました。
私は目の前の彼女の反応にほっとしたと同時に、この違いは何なのかを考えました。
否定されたように感じた友人
後から振り返ると、冒頭の彼女は自分の人生が否定されたように感じたのだと推測します。

もちろん全くそんなことはないのですが。
私の「子どもいらない」発言が、彼女の目指す「子どものいる人生」に価値がないと言われた気がして、慌てて反論したのではないでしょうか。
つまり、彼女の脳内で
相手が自分と反対の発言をした=自分を否定された
と変換されていたのです。
一方、米国人の彼女は、私に否定されたとは微塵も思わなかったと思います。
なぜ自分と違う思考を受け入れられないのか?
このエピソードと似たような場面が、職場でも度々ありました。
個人の志向や好みの話だとしても、このような会話パターンが非常に多かったのです。
- 日本人は、自分と違う志向を持つ人を論破しようとすることが多く
- 欧米圏の人は、「あなたはそうなのね。私はこうよ」という話し方をする人が多い
この違いは気のせいなんかじゃない。何か理由があるのではないか?と思いました。
日本:同調されないことに慣れていない
ではなぜ日本では、反対意見を聞いて「自分が否定された」と思ってしまう人が存在するのでしょう?
もちろん個人によるところが大きいのですが、育った環境も多少は関係しているのかもしれません。
たとえば同調圧力の強い日本では、目の前の相手と正反対のことを言う場面は多くありません。
私も、相手と意見が異なる場合に、無意識に発言を控えることがあります。
共感を重視する流れで、あえて反対のことを言って話の腰を折るのはよそうと思う場面も少なくありません。
欧米:相手と異なるのは当たり前
一方、アメリカ人の友人に聞いてみたところ、彼女の国では反対の文化がありました。
基本的には「相手は相手。自分は自分」という教えが刷り込まれているとのこと。
相手と自分は別の人間で、人生の方向や志向性が異なるのは当然。
つまり、このような教育を小さな頃から受けている、ということでした。
自分に共感してくれないからといって、他人の価値観を「正しくない」と声高に主張する必要がないんですよね。
どの志向性も間違っていないし、誰かを攻撃する必要もない
私は共感を大切にする日本文化と自立した考えの米国文化、どちらも好きです。
そして、これらの違いはもしかしたら文化関係なく、ただ私が遭遇した人たちの特性だったのかもしれません。
ただ、この一連のすれ違いエピソードが、もし文化の違いによるものだとしたら。
日本人が幸福満足度で、世界から遅れを取るのは当然かもしれません。
もう一度お伝えします。
どの志向性も間違っていないし、自分で選んだことで自分が幸せなら、誰を攻撃する必要もないのです。
正義中毒になっていないか、振り返ろうね
誰かがあなたと違う意見を言った時、もし反論したい気持ちになったら。
「これって正義中毒?」と、一度立ち止まってみてください。
そして相手をよく見てみてください。
その人は相手を否定したわけではなく、あくまで自分の考えを話しただけです。
あなたは誰とも戦う必要はないし、自分が正解だと世界に主張する必要もありません。
幸せな会話が、この世に増えますように。
まとめ
以上、「私たちが陥りやすい会話の落とし穴、正義中毒」についてお伝えしました。
私の結論は、こちらでした。
- 正義中毒とは、自分と異なる考えや行動を理解できず、許せないと感じてしまうこと。
- 相手と自分は別の人間なので、志向性が異なるのは当然。
- 反論したくなった時は、「正義中毒になっていないか?」と立ち止まろう。
昔の記事なのでリライトして改めて思ったのですが…長文で申し訳ありません!読んでいただきありがとうございます。(2025年追記)
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