こんにちは。好きなことでゆるく働き、都心ミニマルライフを楽しむもふもふです。
私の高校時代は理数系の勉強が苦手で、赤点ばかりでした。
まあまあ高学歴の夫くんにこの話をすると、けっこう驚かれます。
赤点にびっくり、ということではなく、
なんでそんなに勉強ができなかったのに、きみは自己肯定感が高いの?
という疑問があるようなんですね。大きなお世話ですが。
今回は、「賢くない自分がけっこう好き。自己肯定感の話。」についてお伝えします。
学校の勉強に興味が持てなかった

私はなぜか理数系が全くだめでして、高校では能力別4クラスのうち、3年間ずっと一番下のクラスでした。
一番下のクラスだと雰囲気も牧歌的でして、「まあ、サインコサインタンジェントを知らなくても、生きていけるもんね〜。」みたいな、先生含めてなんかゆるーーーい感じ。
1番上のクラスは秀才集団だったので、これまた「好きなペースでどんどん進む」みたいな感じで、楽しそうでした。
一方で、中間クラスの子たちはいつもギリギリ辛そうで、先生にも「努力すればできる」と日々厳しく指導されていました。
つまり私から見て、なぜか一番上と一番下のクラスだけが、楽しい日々を過ごしているように見えたんですよね。
おばかな私がそのまま牧歌的に成長したのは、このような背景があるからかもしれません。
バカでいられることって、けっこう価値だよ
私が10代の時は、なぜかはわかりませんが、ぼんやりとこう思っていました。
ほどよく鈍感に、ほどよくバカでいたほうが、なんかうまくいくのかも?
というのも、私のまわりで賢い友達ほど繊細だったし、打たれ弱かったんですよね。
誤解をおそれずに言うと、あれこれ考えすぎて病んでいる人が多かったように思います。
そのため私には、自分の相棒である愛犬たちのように、単純な思考でいることが強く美しく見えました。
個人的に振り返ると、この直感はやはり当たっていたと思います。
賢くないからこそ、健やかでいられる
もちろん私も学校の勉強で力を発揮できたならば、そちらの道に邁進した気がします。
私はシンプルにおばかだったので、早々にその道で戦うのはやめました。
もし自分が偏差値の世界にどっぷり浸かっていたら、周りについていけず、全てに萎縮してしまったことでしょう。
私は自分のことが好きなので、そんな悲しき状態の自分を想像するだけで嫌だったのです。

こっちじゃない!ということだけは、はっきりとわかった。
そこで、自分が生き延びるために試行錯誤した結果、自分だけの方法で試練を乗り越えるタフさを身につけることにしたのでした。
自分が本来もっている性質には、価値がある
社会基準では賢くないと判定される私ですが、そんな自分のことを、なぜかけっこう気に入っています。
- 賢くないからこそ、健やかでいられる
- 賢くないからこそ、深く考えずに突っ走れる
- 賢くないからこそ、自分だけの方法を自由に試せる
私が言いたいのは、学力うんぬんの話ではなく、
自分が本来もっている性質には、何らかの価値がある
ということです。
あなたが本来もっている性質はなんですか?そこにこそ、価値があるかもしれませんよ。
まとめ
以上、「賢くない自分がけっこう好き。自己肯定感の話。」についてお伝えしました。
私の結論は、こちらでした。
- 賢くないからこそ、健やかでいられる
- 賢くないからこそ、深く考えずに突っ走れる
- 賢くないからこそ、自分だけの方法を自由に試せる
- 自分が本来もっている性質には、何らかの価値がある
あと、ほんと人それぞれ元々持つパワーも、社会適性も異なるので、
「みんながあたりまえにできることが、自分にはなんかつらい。」
という方は、誰とも比べることなく、自分に合う環境づくりをしましょうね。
私は満員電車に乗れずスーパーに行けず、というまあまあな社会不適合者ですが、楽しく暮らしていますよ〜。
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