こんにちは。好きなことでゆるく働き、都心ミニマルライフを楽しむもふもふです。
最近、なんとなくの直感というか、ちょっとだけ危惧していることがあります。
それは、思考のベクトルが自分に行きすぎるということ。
今回は、【サイドFIREした40代のリスク】ベクトルが自分に向きがちになる?についてお伝えします。
サイドFIREもどきをして、早2年
1800万円というささやかな額を貯めてから、働く量を減らし、2年が経ちました。
これをサイドFIREといっていいのかわかりませんが、おかげで日常が整っています。
サイドFIREで、やりたいことができる!という感覚は、私の場合ほんの少しでして。
どちらかというと、この感覚のほうが強いかな。
体力が半減した今に、間に合ってよかった。
それと同時に、FIREしている友人を眺め、少々危惧するリスクも出てきました。
思考が自分に行きすぎる問題
時間があるからなのか、年齢の問題なのか?
まわりのFIREした40代たちを眺めていると、自分に思考が行きはじめた人が増えた気がします。気のせいかな。
うまく伝わるかわかりませんが、たとえばこういうこと。
- 生きるとは何か?を深く考え始める
- 哲学書や各国の宗教観にハマり始める
- 人間関係に真剣に向き合い始める
- 他人とのバウンダリーが薄れ始める
彼らと話しているときに、世間話が少なくなり、自分のなかに深く潜る、いわば哲学っぽい話が増えたことに気づきました。
個人的には面白いのですが、浮世離れが加速しているようにも感じるんですよね。
バウンダリーもなぜか少しだけ薄れてきた

とある友人は、バウンダリーもちょっとだけ薄れ始めていて、たとえばこんな発言もあったりします。
みんながより幸せになるためには、◯◯という哲学書は絶対に学んでおいた方がいいよ(圧)
わかりますかね、この雰囲気。
スピリチュアルや新興宗教にハマった人がまとう空気に、ちょっと似ていると感じました。(もう一人の友人が警戒した表情になっていた。)
彼女は1年前はもっと気楽というか、外に視線が向いていて、他人に自分の考えを布教するような圧もありませんでした。
おそらく人との接触が少ないこともあり、内省する機会が増え、必然的に学びや気づきが多くあるのでしょう。
それと引き換えに、ほかの友人が警戒の表情を浮かべたことにも気づかず、自分が得た学びに固執する印象を持ちました。
彼女と話していて最も違和感を感じたのは、思考の矢印が、全て本人に向いていたこと。

友人たちと会話を楽しむというより、自己内省を日々深く、真剣にしている感じ。
この現象を、今回はベクトルが自分に行きがちと表現してみました。
自分のことは、誰もそこまで興味を持っていない
私は自分のことが大好きなので、このブログで自分語りもするし、自己分析もまあ好きです。
そのため、うっかりすると彼女のように、思考のベクトルが自分に行きすぎることがあるかもしれません。
それの何が悪いんだ?と言われれば、特に悪くはないのですが、
自分のことは自分以外、誰もそこまで興味を持っていない
という前提を忘れると、面倒そうに思われて、人が離れていくかもしれません。
私の場合、人と一緒にいるときは相手に興味をもつ方が学びがあるし、お互いに楽しい気がします。
というわけで、あなたも歳を重ね、人と関わりが少なった時こそ、
ベクトルが自分に向きすぎていないか
を確認しみてくださいね。
私は深い気づきなどなくていいので、明るい世界で人と笑い、気楽に構え、健やかに過ごしたいなと思ったのでした。
まとめ
以上、【サイドFIREした40代のリスク】ベクトルが自分に向きがちになる?についてお伝えしました。
私の結論は、こちらでした。
- 自分へ思考のベクトルが行きすぎていないか?の視点を持とう
- 自分のことは自分以外、誰もそこまで興味を持っていない
また、私がもう一つ危惧していることは、こちら。
何事も深く考えすぎると、人は高確率で病みます。
実際に前述の友人も、前に会った時より気難しい表情になっていた印象でした。ちょっとだけ心配。
自分の生きる意味を考えまくったところで、視界が明るくならないのなら、私は考えることを放棄します。
それより、おいしいものを食べて、わっはっはと笑って、あー楽しかった!とこの世を去りたいな。
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